「寝ているあいだに脳の老廃物を洗い流す音」。
そう題した動画を再生してから、布団に入る。再生回数は数百万。コメント欄には「よく眠れました」と並ぶ。
前半は本当だ。後半が問題になる。
研究
2013年、ロチェスター大学のチームがマウスで観察したのは、奇妙な光景だった。眠りに落ちると、脳の細胞と細胞のすきまが約60%広がる。すきまが広がれば、そこを通る液の流れは増える。実際、アミロイドβ——アルツハイマー病で蓄積するタンパク質——の排出速度は、覚醒時より上がっていた。
脳には、体のほかの部分にあるリンパ管がない。かわりに、脳脊髄液が血管に沿って流れ込み、老廃物を押し流していく。この仕組みはグリンパティック系と呼ばれる。そして、その働きが強まるのは眠っているあいだだ。
2019年、ヒトでも直接観察された。眠っている人の脳波と血流と脳脊髄液を同時に測ると、三つは連動して波打っていた。深い睡眠に現れるゆっくりした脳波——徐波——が立ち上がるたび、脳脊髄液が脳へ押し寄せる。掃除を駆動しているのは、この波だった。
つまり「眠っているあいだに脳が洗われる」は、比喩ではない。
音でできること、できないこと
では、その波を音で強められないか。
強められる。2013年、リューベック大学のチームが示した。眠っている人の脳波を計測し、徐波の「上り」の瞬間に短い音を鳴らす。すると徐波は増幅され、記憶の定着まで改善した。閉ループ聴覚刺激と呼ばれる手法だ。
ここに、動画には決して真似できない条件が二つある。
ひとつは、脳波を測っていること。いま徐波のどこにいるのかを知らなければ、音を合わせようがない。
もうひとつが決定的だ。2020年の研究は、タイミングを変えて比較している。波の上りに合わせれば徐波は強まる。だが下りに合わせると、逆の効果が出た。徐波は弱まったのだ。
動画は、再生している人の脳波を見ていない。見られない。だから音が鳴る瞬間は、上りにも下りにも当たる。強める側にも、打ち消す側にも回る。
「流す音」という言葉には、まだ根拠がない。
日本哲学のレンズ
日本には養生という言葉がある。
貝原益軒が『養生訓』を書いたのは1713年、83歳のときだった。そこに書かれているのは、劇的な治療法ではない。食べすぎない。夜ふかししない。怒らない。歩く。つまり、日々の過ごし方そのものが健康をつくるという考え方だ。
養生の反対は、治療ではなく、外注だと思う。
何かを飲めば、何かを再生すれば、体が勝手に整う。そう期待するとき、人は自分の生活を手放している。益軒が繰り返し書いたのは、その逆だった。整えるのは条件であって、結果ではない。
脳の掃除も同じ構造をしている。流すのは音ではない。深く眠れた夜が流す。だとすれば、やるべきことは音を探すことではなく、深く眠れる条件を整えることになる。
派手ではない。だが、こちらには根拠がある。
ラボノート
- 「脳を洗浄する音」を名乗る動画に、その根拠はない。 脳波を測っていない以上、タイミングは当たり外れになる。害があるとは言えないが、効くとも言えない。
- 深い睡眠の量そのものを増やしにいく。 就床・起床の時刻を一定にする。朝に光を浴びる。夕方以降のカフェインを控える。地味だが、徐波を増やす方向に効くのはこちらだ。
- 音を使うなら、目的を「入眠しやすくすること」に限る。 静かな環境音が寝つきを助けることはある。それは掃除の効率を上げるのではなく、掃除が始まる時間を早めるということだ。
- 数字を見たら、単位を確かめる。 「60%」はマウスの細胞外スペースの拡大率であって、あなたの老廃物が60%減るという意味ではない。研究の数字は、移動するあいだに意味を変える。
あなたの脳は今、どの状態ですか?