同じ考えが、何周もしている。

言わなければよかった一言。返ってこない連絡。来月の判断。頭のなかで、同じ場面が再生され続ける。止めようとするほど、止まらない。

これを反芻という。そして、止め方として研究されているものに、意外なものがある。

研究

2015年、スタンフォードのチームが実験を組んだ。

参加者に90分歩いてもらう。一方の群は自然のなかを、もう一方は交通量の多い車道沿いを。距離も時間も揃えてある。違うのは、歩いた場所だけだ。

前後で、反芻の程度を自己報告で測り、脳も撮った。

自然のなかを歩いた群では、反芻の報告が下がった。ここまでは想像がつく。だが同時に、膝下前部帯状皮質——反芻や悲しみ、うつ状態との関連が繰り返し報告されている部位——の血流も下がっていた。

車道沿いを歩いた群では、どちらも変わらなかった。

「自然はなんとなく気持ちがいい」という話ではない。歩く場所の違いが、特定の脳部位の活動として現れた。

なぜ歩くだけで止まるのか

反芻が続くのは、脳が「解決しようとしている」からだ。答えの出ない問題を、出るまで回し続ける。だが多くの場合、その問題は考えて解けるものではない。

自然環境が効く理由として提案されているのは、注意の使い方が変わることだ。街なかの注意は、能動的に向け続ける必要がある。信号、車、人。一方、自然のなかの注意は、勝手に引かれる。葉の動き、水音、光の変化。押さえつけずに向く先が変わる。

反芻を「やめよう」とすると、やめようとしている自分に注意が向く。行き先が用意されているほうが、結果的に離れやすい。

日本哲学のレンズ

森林浴という言葉は、1982年に林野庁が使いはじめた造語だ。歴史は浅い。

だが背景にある感覚は古い。日本の庭は、鑑賞するためだけのものではなく、歩くように作られてきた。回遊式庭園は、順路を進むごとに景色が変わる。立ち止まって眺める一枚絵ではなく、移動しながら受け取るものとして設計されている。

ここで効いているのは、たぶん「見る」ことではなく「移動しながら見る」ことだ。景色が変わり続けるかぎり、注意は同じところに留まれない。反芻は、同じところに留まる働きだった。

庭を歩くという習慣は、意識を切り替える装置として作られていたのかもしれない。少なくとも、結果として同じ働きをしている。

ラボノート

  • 考えが止まらないときは、歩く場所を変える。 歩くこと自体より、どこを歩くかが変数だった。
  • 公園でよい。 研究で使われたのも、特別な原生林ではない。街のなかの緑地で条件は満たせる。
  • 音楽やポッドキャストを入れない。 注意が勝手に引かれる先を用意するのが要点なので、耳を塞ぐと効きにくくなる可能性がある。
  • 「考えないようにする」をやめる。 抑え込む方向ではなく、向く先を変える方向で扱う。

あなたの脳は今、どの状態ですか?